釧路市手話言語条例の策定を振り返り…
自らが過去に書いた文章は、「二度と目にしたくない…」と思うものが少なくない。「いまならば、もっとこう書けるのに…」という、どうしようもない思いになる。一方、ほんの一部だが、いま読み返しても自分なりに納得できる文章もある。以下の文章は、後者である。
釧路市「手話言語条例」は、私が市民策定委員会の座長として、委員の皆さんと協議してつくった思い入れの強いもの。施行直後に、釧路新聞「巷論」というコラムに載せてもらった拙稿をあらためてご紹介します。
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ある時、聴こえに障害のある友人の案内で、彼の母校である某県の聾学校を見学した。その幼稚部では、手話や指文字を用いながら、単語の発音練習をしていた。また、コミュニケーションの意欲を高めるために、集団によるレクリェーションも行われていた。楽しい遊びを通して、子どもたちからすると「いつの間にか」言葉を学んでいるという場面だった。
筆者は、この教育実践に感銘を受けたのだが、案内してくれた友人は、憮然とした表情で子どもたちの様子を見ていた。
彼は、幼児期に同じ学校において、「手話や指文字を使ってはいけない」と厳しく指導されていた。少しでも手を用いて表現しようとするならば、叱責の言葉がとび、手の甲を叩かれることもあった。そして「社会に適応するため」に、自らも発声し、他者の唇の動きと形から言葉を読む「口話」の訓練が徹底された。ほとんど聴こえなかった彼にとって、口話法の訓練とそれを用いたコミュニケーションには、大変な苦労があったことは想像に難くない。
彼の憮然とした表情は、子どもに対して優しくなった学校への不満ではなく、一面的な「社会への適応」という目標のために、手話という言語とコミュニケーションツールを捨てて生きざるを得ない中で形成された「アイデンティティ」が、大きく揺らいだことの表れだった。
「手話は、音声言語である日本語と異なる言語であり、ろう者のコミュニケーションや、思考、論理、感性、情緒等の基盤となるものとして、ろう者の間で大切に育まれてきた。」
この一文は、2017年4月、釧路市で施行された「釧路市手話言語条例」前文の一部である。
手話が排斥され、手話を使うことが権利として保障されなかった時代は、社会の側が「ろう者から言語を奪ってきた歴史」と言い換えることができる。
今日、そのような歴史を乗り越え、幅広い多くの市民に手話が共有されることによって、手話は言語として輝く。
(初出 2017.5.2 釧路新聞「巷論」)